93話  晩秋の釣り場


 長年イトウ釣りをやっていても、シーズン残り少ない晩秋を迎えると哀愁に沈むことになる。シーズンを通してよい釣果をあげた年は、パラダイスを去るような寂しさを味わうが、逆に不完全燃焼で過ぎ去った年は、報われなかった日々がむなしい。

 11月の声をきくと、さすがに宗谷へ来る釣り師も数も激減する。木々の紅葉黄葉は烈風にさらわれて落葉となり、一年草は枯れて倒れ、原野の見通しがぐっとよくなる。雪も頻繁にパラパラと降り、水たまりは凍る。この季節になると川は慢性的に増水して、しかも水温は氷点に近い氷水であるから、川中に立ちこむ意欲はなかなか湧かない。

しかし私は宗谷であれば、およそどんな川の状況でも対応できるように、各地に釣り場を用意していて、晩秋には晩秋の釣り場を利用する。冬枯れた釣り場で孤独にシーズンを振り返りながら、竿を振るのもなかなかいいものだ。

晩秋の午後、牧草地の入口で車を捨て、広い草地を横切り、つぎにササ原を突っ切って、川岸の氾濫原に降り立つ。

多少強風が吹いても、ササ原がざわめくだけで、釣り場はわりに静穏である。ここはなんの変哲もない川なので、得意の命名のしようがなく、しかたないので「俺の釣り場」と称している。

むかしは私の独壇場であったが、最近は後続部隊が立ち入るようになって、かつてほどは釣れない。それでも、2時間ほど粘っていると1匹くらいは来る。いまの釣り人は、自分で釣り場への小道を拓いたり、釣り座を整備したりしないで、できあがったところをちゃっかり利用する傾向にある。開拓ということをしない。私が作った釣り場を利用ばかりして、自らはちっとも開拓しない若者がいるので、私もすこし意地悪することにした。アプローチルートを変更したのだ。こうしておくと、従来のルートで近づくといつも鬱蒼としているので、若者はあきらめて立ち去るが、じつは川沿いには別ルートでしっかりトレースを刻んである。そんなことで、最近はまた孤独に秋の川を楽しめるようになった。

 「俺の釣り場」はとても深いので、とうてい川中に立ちこむことができない。川岸のヨシ原をすこし踏み倒して、釣り座を設ける。それらは毎年おなじ場所で、基点から番号をふって識別する。イトウが掛かっても、水面と釣り座に落差があるので、長い柄のついたタモがどうしても要る。むかし良型が掛かって、岸辺まで寄せたのに、魚まで手が届かず逃がしてしまった苦い釣り歴がある。それでいまは、ニュージーランド製の柄が伸縮自在のタモを背中に背負っている。

 「俺の釣り場」のなかでもとりわけ有望なポイントが、川幅がくびれたように狭くなっている「首」である。ここには大物が付く。ある年、この釣り場で掛かったイトウは、異常なほど体高があって、プリプリに肥っていた。体長は82pなのに、腹はまるで和金のように膨らんでいた。明らかに荒食いして胃がはちきれんばかりに膨らんでいるのに、頭部は小さく可愛い顔をしていた。アグネス・ラム(古いなあ)みたいなグラマーだ。おそらくメスで、抱卵もしていたにちがいない。

「俺の釣り場」がにわかに危険地帯になる時期がある。それは10月1日のカモ猟解禁の直後である。下手な猟師が、爆音を響かせたボートでやってきて、見さかいなく動くものにぶっ放すことがある。岸辺の釣り師はどう見てもカモには見えないとおもうが、いきなり発砲するのだ。それ以来、私はボートのエンジン音を聞くと、その場から立ち去ることに決めている。

 初夏からずっと釣りをしてきて、晩秋を迎えるともう達観して、釣れても釣れなくてもどちらでもいいような心境になっている。そんな枯れた釣り師の竿に「俺の釣り場」でときどきドシンとお歳暮のような大魚が掛かる。