90話  南極へ行く友


 初秋の昼前、私は出張先の札幌から、稚内に向かってハンドルを握っていた。曇りで微風のおだやかな休日で、ドライブは快適で開放感にあふれていた。日本海を望む初山別村の市街地をすぎたあたりで、対向車線を見慣れた車が走ってきて、すれ違った。写真家の阿部幹雄だった。しばらく会っていないので、立ち話でもしようと思っているうちにケータイが鳴った。彼が適当な駐車場に停まっているので、私がUターンして追いつけばよかった。

 「やあ、しばらく」

 「日焼けして元気そうですね」

そんなあいさつから、立ち話ははじまった。以前なら、よく一緒にイトウ釣りにでかけたから、会話もまずイトウ話からはじまったはずだ。しかし、いまはちがう。阿部が11月に南極へ行くのだ。東京での南極観測の準備状況とか、取材してきたばかりの稚内港に停泊している砕氷船しらせの様子とか、出発前の壮行会などの話題が尽きなかった。

「ところで、ことしのイトウ釣りは好調ですね」

2005年と2006年が不調だったけれど、ことしはむかしに戻ったみたいだ」

私は、ことしは30、40p級がよく釣れて、イトウ資源の回復が見込めることを述べた。さらに最近はメーター級に遭遇することも多く、「メーターの足音がすぐ近くに聞こえる」とも言った。

20分ほど立ち話をしたあと、阿部と私は反対方向にハンドルを切って別れた。最近は撮影釣行をやることはめったにない。以前1999年と2002年にふたりの共著でイトウの本を出版したが、その後は出版の機会もない。ふたりの中では、もうイトウ本の話題がのぼらないが、依然として私はイトウ釣りをつづけているし、阿部は未発表の釣り写真をたくさん持っている。いずれ本格的な写真集として出版できる日がくるかもしれない。

その日、私は午後には宗谷に帰着し、夕方まで通いなれた川で竿を振った。川は平常水位より10pほど増水して、なかなか手ごわかった。あたりは二度あり、一度目は口にフックが掛かったが、硬いあごに跳ね飛ばされたようで、釣ることができなかった。二度目は、絶対いるはずという場所で十投ほどキャストして、やっとのことで53pイトウを引きずり出した。ことし65匹目のイトウだった。その1匹でじゅうぶん満足した。

稚内市街に入ると、私はすぐに稚内港にむかった。かつて南極の往復に乗船したしらせにひと目会いたかったからだ。どこに停泊しているのか探すまでもなかった。巨大なオレンジ色の船体は、すぐに眼に飛び込んできた。どんよりと街を覆う曇り空の下でも、しらせの存在感は際立っていた。私は、左舷と舳先からのアングルでなつかしい船体の写真を撮り、しばらく視線で砕氷船のすみずみを嘗め回してから、港を離れた。

阿部は私の大学と運動部の後輩であるが、イトウと南極についても私の後ろからこの世界に入ることになった。どちらも引き込んだのは私だった。

イトウ釣りを私は40歳からはじめたのだから、随分遅咲きなのだが、それを取材しはじめたとき阿部も40歳を過ぎていた。おじさんたちが、面白がって宗谷の湿原と森の川を歩き回っているうちに、専門家といわれるようになってしまった。

いっぽう南極観測隊のほうは、私は30歳と37歳で出かけていったのだが、阿部は53歳という随分「高齢」ではじめて隊員になった。阿部を推薦したのも私であるが、「高齢」なのに選考委員会で選抜されたのは阿部のアウトドアマンとしての実力である。

2007年の初冬、阿部が南極へ旅立つころ、私の今季のイトウ釣りは終盤だ。再会した折、お互いにいい土産話をしたいものだ。