85話  スレの97cm


 7月中旬の夕方、私はいつもの中小河川にその日最後の入釣をした。早朝からの川歩きでそうとう肉体疲労を感じていたし、その場所に特に大きな期待をしていたわけでもない。ただ、週末に一度は竿をふっておかなければ心残りなポイントがあるのだ。

 一番草はとっくに刈り取られていたが、もう牧草は20センチほど伸びて、牧草地の心地よいクッションを味わいながら、川へと歩いた。車を停めた場所から、川までは直線距離にして400メートルほどしかない。牧草地を横切り、それから夏草や樹木がうっそうと生い茂るジャングルの中の私のケモノ道を抜けると、そこに幅10mほどの川がゆったりと流れているのだ。

 このところの晴天つづきで川は減水し、ふだんは顔を見せない川原があちこちにできている。水温は20.2℃だ。狙い場所はただ1ヶ所。そこはこの中流域ではもっとも深い渕で、真上に大きなヤナギの木が川に張り出して、具合のいい影を水面に落としている。魚の種類、大小を問わなければ、そこに二回に一回は魚がいて、食いつく。

 長年やっていて、そこを攻める作法もできあがってしまった。下流100mから立ちこんで、対岸沿いに川中をそろりと歩き、集中的にそのポイントを角度を変えながらシュートする。ゆっくりと上流側に忍び込み、最後は完全に上流から逆引きで攻める。なぜか、たいてい逆引きで魚がドンと出る。

 その日もおなじ作法で、最後は上流から一歩ずつにじり寄った。もう最深部まで5mもない。

 「駄目かなあ」となかばあきらめつつ、最後の一投を、張り出した木の根元に近いえぐれに投入した。

 「さっきから随分うるさいなあ」

 そんな感じで魚が動きはじめた。私は、掛かった魚の重さを当初から感じていた。80くらいかなと過小評価していた。その見当が外れていることは、二度のアワセを加えた直後に痛切に思い知らされる。

魚がいきなり怒った。ドドドとものすごいパワーで走りはじめたのだ。その勢いは縦横無尽の爆走ともいうべきもので、釣り師は竿をのされないように立てて、ただただ魚に付いて走るだけだ。ドラグをもっと弛めればいいのは分かっているが、弛めるとあっという間にブッシュ帯に潜り込まれ、ラインが倒木にからみついて一巻の終わりになる。私は竿の剛性と16ポンドラインの強さに賭けた。あとは、釣り師の位置取りをよくして、ただただ魚が疲れるのを待つのだ。

 ラインはティップから5m出した。それでもう譲らない。ラインは、ときおりキーン、キーンと鳴る。ロッドが曲がる曲がる。8ft竿の継ぎの部分の直上で、満月どころか、ヘアピンで曲がった。竿が轟音とともに真っ二つに折れるのではないかと本気で心配した。私は、ヘアピンの竿を反り気味に構えて、魚にストップをかけつづけた。

 「なんだこの魚は。メーターをはるかに超えているのか」

心臓がバクバク打つ。呼吸がゼーゼー乱れる。腕は渾身の力を出して震えている。脚は走りっぱなしだ。腕時計でヒット時間は確認しておいた。すでに5分が過ぎた。

 そのときだ。魚が水面に浮いた。でかいというより、長いと感じた。それよりもショックなのは、ルアーが口ではなく、背びれに掛かっていると知ったことだ。スレだったのだ。どうりでこのパワーだ。ただし、ヒレ掛りは、皮膚に刺さっているよりは、ずっといい。フックは口の次に抜けにくい個所に刺さったのだ。

 浮上したイトウは、案外おとなしいが、随分重い。イトウは口に掛かったフックは、頭を激しく振って外そうとする。しかし背びれに掛かったフックには途方にくれている。

周囲にランディングする場所はないし、ネットですくえる大きさではまったくない。

 「下流200mの川原まで下ろう」

すぐ決断した。長い道程だが引きずりおろすのだ。

 魚は背びれから引っ張られているので、まともには泳げない。身体をへの字に曲げて、水面を滑る。

 「ゆっくり、ゆっくり」

私は川中に乱立する倒木流木などの障害物をひとつひとつ丹念に避けながら、じわりじわりと下流へ歩いた。できるだけ深いところを探して、遠回りしても安全を期した。

 あと100m、あと50m、あと20m。そこで魚が暴れだした。はむかわないで、行きたいところへ行かせ、また引きもどした。200mの移動に15分かけた。水深が浅くなる。瀬にさしかかったとき、私は攻めに出た。

 竿を斜めに寝かして、川原に向け走った。強引に竿を力であおって、ひたひたの水面に横たわった魚をなおも陸へと滑らせた。イトウを得意の右膝で抑え、動きを封じた。「勝った」とおもった。

 イトウは体長97p、胴回り44p、体重6.4kgのオスであった。体長のわりに体重が軽かったことが、スレ掛りのイトウのパワーに釣り師が耐えられた一因であった。だがイトウ釣り18年の経験、知識、運勘根のすべてを注入した闘いであった。

 すべてが終わり、夕陽が傾くなか、イトウが静かに去っていく水脈をじっと見守った。最高の結果に私はしびれていた。