66話  温泉


 道北には各自治体に温泉施設があり、どれも人気を博している。観光施設としてよりも、むしろ地元民の銭湯としての役割を果たしているから、公費で温泉施設を作っても文句をいう住民が少ない。

宗谷でイトウ釣りをやるかたわら、地元の温泉施設に宿泊して、汗と泥を流すことを楽しみにしている釣り人も多いと推測する。

この夏、私は週末の出張の前夜を好きなポンピラ温泉に一泊することにした。一日いっぱい川に浸っているくせに、あまり入浴は好きではない。たまに道北の宿としての温泉に泊まるが、入浴はカラスの行水である。

食堂での夕食を食べたあと、ちょっと車でとなりの佐久集落まで出かけた。そこで夏祭りをやるという案内があったからだ。いったい集落のどこにこんなに多くの善男善女が住んでいるのかとおもうほどのにぎわいだった。公民館の前に数張りのテントが張られ、そこで、ビールと焼き鳥、たこ焼き、焼きそばとおでん、金魚すくい、中学生のやっているフリーマーケット、おもちゃバザールが軒を連ねて、みな繁盛していた。公民館の中では、旅芸人が演歌をバックに遊び人の着流しで舞い、ビールですでに出来上がったお父さんたちが、床に立て肘でごろんと横になって、居眠りながらうつろな目で見ていた。田舎の手作りの夏祭りは、京都の祇園祭などの絢爛豪華な祭りばかり見て育った私には、かえって新鮮で心地がよかった。

翌朝3時、私は暗いうちから宿を抜け出した。車を動かし、ひとっ走り、朝飯前の釣りにでかけた。7月半ばともなると、3時はまだ黎明の時間帯で日は昇っていない。車を川岸に止め、いつでもスタンバイになっているルアー付のツーピース竿をつないで、流れにはいった。水温を計ると、すでに20℃もある。水もやや濁っている。しかし、丹念にキャストをつづけているうちに、手前の掛けあがりでドーンと67pがヒットした。おそらく対岸のヤナギの下から魚を導いてきたのだ。イトウがいれば、その場で食いつくこともあるが、ずっと追いかけてきて、最後の竿のピックアップの瞬間に食らいつくこともある。イトウが一匹キャッチできれば、もう十分だ。さっと川を引き上げ、宿に帰って、ひと風呂浴び、食堂で和風の朝食をゆっくり楽しんだ。

8時前にチェックアウトし、駐車場へと歩いてくると、見知らぬ初老の男性から声をかけられた。定年退職し夫婦で気ままな車の旅をしている人らしい。

「釣り師の高木さんですか。放送を見ました」

これには驚いた。会ったことのない人に名前で呼ばれるとは、悪いことができない。名刺がわりにイトウ抱っこ写真をお渡しして、駐車場に立ったまま短いイトウ談義をした。

都会での会議を済ませ、安堵感に包まれて、街でちょっと釣具の買い物をする。稚内では手に入らない品をあれこれと吟味して買うのは楽しい。この日は、80センチの魚をすくえて、なおかつ背中に背負って歩けるタモを買った。都会ならではの心地よい時間である。

帰路はもう釣りをする時間がない。夕暮れ時の国道をただひたすら走る。それでも要所要所の橋からは、かならず川の様子を眺める。ポンピラ温泉の円筒形のホテルを対岸に望みながら、国道を速度をあげて北上する。

北海道にはどこへ行っても温泉施設がある。釣りの狂気をしなやかな湯がやんわりと包んで弛緩させてくれる。いまはまだ温泉を日長楽しむよりは、竿をふっているほうがいいが、そのうちに時間の使い方が逆転するかもしれない。温泉宿には値段相当以上のうまい食事を提供してくれるところもある。イトウを釣って、温泉につかって、心地よい食事と部屋を提供されて8千円くらいの値段なら、だれも高いとは思わないだろう。