56話  亡父


 生物としてのヒトはかならず死を迎える。これだけは古今東西に例外はない。ことし京都にサクラが咲きはじめるころ、私も83歳の老父を亡くした。大正生まれで、大正・昭和・平成を生き、あまり波乱のない幸せな人生をまっとうしたから、この世にそれほど未練はなかっただろう。

 私の釣りキチは、当然ながら父の影響である。父は京都というあまり魚には恵まれない都会で過ごしたわりには、よく魚釣りに私を連れていってくれた。釣り場が加茂川や琵琶湖といった里の釣りであったが、ときには釣堀でヘラブナを狙ったこともあった。もう50年も前の釣りだから、キャッチした魚はすべて持ち帰った。ほとんどは家庭で食べたが、しばらく水槽で飼っていた魚もある。

父もいっときは仕事前に車でひとっぱしり琵琶湖へでかけて、和船を調達し、エリ漁の囲いのなかでゲンゴロウブナを釣ってくるという入れ込みかたであった。川漁師にいくらほど支払っていたのか知るよしもないが、あれは実に効率のいい釣りであったろう。なにしろ定置網に入った密度の濃いゲンゴロウブナを釣るのだから、釣堀よりはるかに釣れたはずだ。父がバケツに入れて持ち帰ってくる数匹のフナは、体長は平均で30pはあり、体高もあって、じつに立派であった。

私は京都から北海道に転居したので、約30年間は父といっしょに釣りをする機会はなかった。再びいっしょに竿を振ったのは、私がすでに40歳代、父は70歳代になってからのことであった。私は短い周期の道内転勤族であったから、渡り歩いた釣りのエリアは広大で、道央から道南、道東、道北に及び、北海道ならだいたいどこでどんな釣りができるかは分かっていた。私の釣りの基礎はそのころできあがった。

父はすでに足腰が衰え、呼吸もときには困難をきたしていたので、長いアプローチを歩くことはできない。釣り場のすぐ近くまで車で乗り付けて、そこで釣るという大名釣りしかできなかった。それでも父は道東のダム湖で、52pのアメマス、45pのニジマスをえさ釣りで釣った。手竿でのこういったサケ科魚の釣りは、老父にはたいそうな釣果であった。

私は、その当時、帽子にCCDビデオカメラを付けて、釣りの様子を記録する試みをしていたので、父が魚を釣って喜ぶシーンを丸ごと記録していた。それが、後年入院生活を送った父のよい慰めになったようだ。8ミリビデオをDVDに焼き直し、携帯用のDVD再生器で見せてやると、ベッド上でなんども見直していた。

父のこういう姿を見ていると、私もおなじように老いたとき、むかしの釣り風景を見て喜ぶにちがいないとおもう。足腰が不自由になったり、寝たきりになったときにかつての釣りをなつかしむ小道具が欲しくなるだろう。幸いにも私にはプロのカメラマンが撮ってくれた動画と静止画の釣行記録があるので、きっとなんども飽きるほど見るにちがいない。

葬儀のときに祭壇に飾る遺影は、なかなかいいものがないが、ああいった写真は当然いつかは使うものであるから、あらかじめ自分で用意しておけばいいのだ。亡父の場合、上記のアメマスを抱いて喜色満面のいいショットがあったのだが、古い親戚縁者には魚釣りを殺生とみる御仁もいるようなので、ありきたりの室内写真を採用した。

私はいつも家族には言ってある。生涯に釣った最大の魚を抱いた釣り人生最高の写真を祭壇にかざってくれと。いまのところ100pイトウを抱っこした写真がそれである。今後もっとでかいのを釣った場合は、それにすげ替えればよい。あらかじめ黒枠で囲っておけば、葬儀屋に手間をかけることもない。

故人が釣り好きだった場合、竿やその他の釣り道具を棺おけにいれてやることもあろう。しかし、現代の釣り道具は、さまざまな化学物質を含んでいるので、燃やすと環境汚染などはた迷惑になることはまちがいない。だから、そういったものは入れないほうがよい。私は、亡父が釣りのときにかぶっていた毛糸の帽子を入れてやった。

天寿をまっとうした年寄りの葬儀は、一族郎党の同窓会みたいな雰囲気があり、荘厳な中にも安らぎがあるものだが、若者の葬儀は悲痛である。私は職業がら、病死自然死以外の数多くの事故死者をみてきた。

イトウ釣りはけっして安全な釣りとは言いがたい。釣りの前後の長距離ドライブも危険である。このサイトを見てくれている先鋭的な釣り師の諸兄は、くれぐれも自分の命を粗末にしないようにしてもらいたい。