30話  釣り師の衰え


  だんだん年を取ってくると、むかしできたことができなくなってくる。これは悲しいけれど現実である。フィッシングは老若男女わけへだてなく楽しめる趣味の王様であるが、それもそこそこにやっている場合である。エキスパートたらんと限界まで必死にがんばっていると、やはり年齢の壁というものにぶちあたる。むかしのようにはいかなくなる。

まず感覚の衰え。視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の五感のうち、釣りにとくに大事なのは視・聴・触の三覚であるとおもうのだが、視覚の落ち込みが一番こたえる。水中の魚が見えない。ライズが見えない。ルアーとラインの連結がなかなかできない。とくに薄明の時間帯は苦手である。こんなことは目をつぶっていてもできると思っていたことが、見えないとやっぱりできない。すぐ近くのボイルの水音が聞こえない。ルアーをキャストして、出すぎたラインをサミングでコントロールしそこなって、対岸の木に引っ掛けてしまう。つぎからつぎへと衰えば噴出する。

つぎに体力の衰え。筋肉や腱や骨といった運動器は眼耳鼻皮膚などの感覚器とちがって、鍛えることによってある程度老化現象到来を引き伸ばせると私は信じて、まいにちせっせとトレーニングを積み重ねてきた。しかし、そうやって維持してきたつもりの体力が、もののみごとにストンと落とされることがある。その契機となるのが、けがや過労や脱水やカゼのような軽い病気なのである。一度失うと、体力を回復することがなかなか困難だ。プロ野球のかつての一流選手が、ちょっとしたけがが元で体力を失い、若手にレギュラーポジションを取られるのと似ている。

感覚と体力が衰えると、さらに気力が落ち込む。かつての旺盛な好奇心、激しい意欲、とどまるところを知らない不屈の精神は、潮が引くように、シャボン玉がはじけるように消滅していく。それを仕事のせいとか、年のせいとか言い訳してもはじまらない。それは「かつてほど釣りが好きではなくなった」ということなのか。なぜこんなことを書くのかというと、ことし私は釣り師としてのピンチに陥ったからである。6月だというのに私の常釣り場にイトウがまったくいない期間がつづいて、精神的にひどく腐っていた。そこへ体調の悪化と急激な体力低下が起きたものだから、弱り目にたたり目である。釣りの神様はなんでこれほど試練を与えつづけるのかとうらんだものだ。

そんなころ、伝説のイトウ釣り名人・草島清作氏の釣り技を見せてもらう機会があった。生涯メーター級のイトウを4000匹釣ったという桁違いの釣り師である。しかも年齢は私より20歳も年上である。温泉で待ち合わせて、近くの川でいっしょに竿をふることになった。草島名人は、大川の悠然とした雰囲気のなかで、長竿を振るのがお好きらしい。15ftはあろうかという振り出し竿を伸ばして、川中に立ちこむ姿は、一幅の絵になっている。若輩者の私などとは風格がちがう。

「ヒューン」

草島名人が竿をひと振りすると、ルアーが高い飛行曲線を描いて、川に吸い込まれていく。ルアーが着水すると、ミャク釣り、フカセ釣りの技が登場する。それについては、私がいま伝授を受けているので、もうすこしモノにしてから解説したい。自分が多少衰えてきたといっても、20歳も人生の先輩が、川に立って堂々と長竿を振っているというのに、私が老け込むわけにもいかない。横でキャストを繰り返しているうちに、なんだかフツフツと元気がでてきた。

20年後にいまの草島名人のような釣りがしたい」

それを釣り師・高木知敬のひとつの目標にしようではないか。

その後まもなく私は70pのイトウを1匹釣った。イトウ釣り師にとって、スランプを脱する最高の薬はイトウ1匹である。それである程度気力と体力を回復した。加齢にともなうヒトの身体の衰えは、誰も防ぐことはできない。やはり、年齢に応じた釣りをやるしかない。しかし、草島名人のようなイトウへの尽きることのない興味は、年齢を超えた奇跡を生み出すのかもしれない。