278話 天国と地獄 


 9月下旬のことである。朝雨の中を川にでかけ66㎝のイトウを1匹だけ釣って、いちおう満足し家に引き上げた。午後になって雨が止み、青空が現れた。気温も12℃ほどにあがり、釣り日和となった。我慢できなくなって、夕方再び出発した。

 釣り場に着くと、西風が吹き、川面にさざ波が立った。いつもの岬に立ってキャストを繰り返したが、まったく魚信がない。そこで釣り座を変え、合流点から下流に大遠投した。投げたバイブレーションがチャポンと着水した瞬間に、ドカンと衝撃が伝播した。たぶん偶然にも着水点に魚がいたのだ。しかも重々しい引きだ。ある程度大きいとすぐ分かった。

「これはラッキー!」

私は狂喜してリールのハンドルを巻き、引き寄せにかかった。川幅は20mほどだが、障害物がないので、強引に寄せた。5m圏までは来たが、それからがやっかいなのだ。

この釣り場は本流と釣り座の間に池塘があって、そこには踏み込めない。したがって、取り込みに少々工夫が要る。まず長い柄のタモが必須となる。柄が短いとタモ入れができない。それにロッドも長いほうが断然有利となる。足元から遠いところで、魚の動きに合わせて闘えるからだ。

イトウがようやく浮上したところで、タモの柄を3段とも伸ばし、竿を操ってタモの直上にイトウを誘導した。首尾よくスポンと一発でタモ入れに成功した。ここまでは会心の釣りであった。

池塘の水にタモを横たえ、イトウの計測をする。体長88㎝は支流河川ではかなりの良型である。体重はバネ秤でなんと8.8㎏もある。ここまでは天国だった。

さて若干バイブレーションルアーを飲み込まれたので、右手のプアイアーで口腔内のテイルフックを外そうと試みた。左手はイトウの口を開くのに使った。その時イトウが不意に暴れ、遊んでいた前方フックがなんと私の左母指に刺さった。しかも返しまで皮下に入ってしまった。この時点でルアーを介して魚と釣り師がつながってしまったのだ。

私は元来は外科医である。針を自分に刺して抜けなくなった患者さんを外来で処置したことが何度もある。もちろん自分自身も同じ目に遭った経験もある。しかし魚とルアーと私がつながって三つ巴になったのは初めてだった。魚が暴れると私の指もズタズタになる。

そこで、イトウを膝で押さえつけて動きを制し、まずフックを指から離すことに専念した。プライアーでフックを抜くのとは逆にさらに突き通し、フックの返しを皮膚外に突き出した。すかさずプライアーの根元の切断刃で返しを切り取った。こうして、フックは抜けた。しかし私の左手は血だらけだ。ひと安心してゆっくりイトウの口腔内のフックを抜きにかかり、エラを損傷しないでフックを抜くことに成功した。魚は血を流さないで済んだ。なんとかなったが、地獄の沙汰だった。

せっかくの良型イトウなので、池塘のわきに三脚を立ててオリンパスで抱っこ写真を撮影した。魚は傷ついていないのに、私

の左手が真っ赤で、あまり人様に見せられない写真になった。