276話 23日目 


 私は最近では緊急に呼び出されることがない。だから好きな釣りは毎朝でもできる。2017年は58日から毎朝3時に起床し、4時半ころには、川岸に立つことにしていた。毎日というと晴れや曇りとはかぎらず、雨の日もあるが、気象現象にお構いなく釣りをした。

「いつかは大物が俺の前を通るだろう」とのんびり気長に構えることにしていた。

 当初は67㎝と72㎝が突然ヒットして「これなら近いうちに大物が出る」とほくそ笑んだが、そのうちにパタッと魚信が止まった。とくに明らかにイトウが小魚を捕食するボイルが起き始めると、射程距離内にイトウがいるにもかかわらずまったく無視されることがつづいた。それでもくじけずに毎朝おなじ釣り座に立って、ロッドをふり、ルアーを投げつづけた。

 530日になった。5月の釣果はここまで11匹と寂しい数字だ。「そろそろ大物が1匹欲しい」とおもいながら、釣り場に向かった。車のハッチを開いて、セットした竿、直径80㎝の大タモ、カメラ袋を取り出した。ウエーダーは自宅で履いている。あとは釣りジャケットとベスト、さらに帽子と偏光グラスを身に着けた。

 私が付けた川沿いのトレールを歩いて、釣り座に到着した。かならずやることは、タモの柄を伸ばすこと。さらに水温計で水温を測る。水温12.9℃。水位はやや低い。潮汐は中潮で、上げ潮の時間帯だ。その場の写真を撮る。これはカメラのテストでもある。それから、二本つぎのロッドを組み立て、リールの調子をみる。その日もおなじルーチンワークをした。

「さてと、第一投」

私はロッドを大きく振りかぶって、上流方向にバイブレーションをズドーンと遠投した。川床を意識しながら、ユーラリユーラリと曳いた。ルアーを引いたラインが釣り師に近づいて、まもなくピックアップという瞬間、ドスッと衝撃が走り、水面がざわめいた。

「おっ、来た!」

思わず短く叫んだ。ずっしりと重い手ごたえは、ことし初めて味わうものだ。この時を待っていたのだ。魚は沖合に走ろうとするが、きつく締めたドラグが鳴るわけではない。5メートル範囲で水が盛り上がり、逆巻き、水柱が立つ。水面に浮上したイトウは、かなりでかいが、メーターはない。剛竿が大きくしなって、衝撃を悠々と受け止めている。もう逃がすことはあるまい。わきに置いたタモを手にとり、水中に沈めて、そこへイトウを誘導する。案外素直に寄ってくるいい子だ。タモ入れは一発で決まった。

 イトウは体長93㎝で体重が6.4㎏。痩せていた。尾びれは立派だが、身体が細い。これから荒食いして体調を維持しなければならない個体だ。右眼が白くなって白内障のようだ。老人ホームの医者もやっている私は、年老いたイトウが可哀そうになった。グリップを下顎にかまして、水中を泳がすと静まった。手早く撮影し、自撮り装置を駆使して、抱っこ写真も撮った。水際に横たえると、自分で体を立てなおして、濁り水のなかに消えていった。

 イトウの大物が出たのは川岸に立つこと23日目であった。その後また魚信が途絶え、6月下旬に朝の釣りをやめた。ことしの状況はそれだけ渋い。