240話  スレで来た大物


 520日の黎明時、いつもの橋から見下ろした川は、黒光りして異常な熱気を放っていた。全天くもりで、風もない。ボイルもライズもないのに、きょうはなにか起きると胸騒ぎがした。

 平日の朝というのに、川にはすでに10人ほども釣り人が展開して、すでに川に疑似餌を投射していた。直前の週末が暴風雨でまったくの不発だったので、そのうっぷんを晴らしたい人びとが集まっていたのだろう。

 私はそそくさと準備をして、川にせり出したササ原のわきに釣り座を構えた。イトウの会の仲間も近くにいるにちがいない。水温は9℃だが、おとといと比べれば3℃以上上昇している。イトウは活性が高いはずだ。

 その日、11ft竿のガイドに20ポンドのラインを通し、久しぶりにフローティングタイプのK-Tenを結んだ。イトウが回遊する浅場の水面直下をゆっくり泳がすことにした。岸辺と平行に、上流方面と下流方面に交互にキャストしては引いた。

 最高の朝まずめの時間帯にはいった5時すぎ、下流から探ってきたルアーが、もうすこしでピックアップという瞬間、ドスンと重圧がかかった。同時に、ジューと音がして、ラインがリールから吐き出されていった。

「来た」と短く叫び、腕時計の時間をみた。512分だった。魚は全然止まらない。もしかして橋まで行ってしまうのじゃないかと不安になったが、ランの速度は徐々に遅くなり、やがて止まった。「さあ反撃開始だ」。竿をU字にしならせて、重さを心地よく感じながら、リールを巻きにかかった。魚は寄ってきてはまた思い出したように沖合いに走る。そんなやり取りが三度四度とつづく。しかし一向に水面には姿を見せない。

何度目かの接近に際して、魚が平を打ったように横倒しとなって側腹をさらしたとき、なんとK-Tenのフックが背中に刺さっていることを知った。スレ掛かりだったのだ。「これは予断をゆるさない」私は、長期戦に持ち込むことにした。すこしでもラインの緊張を緩めたら、フックは抜けてしまうだろう。

魚は5メートル圏内を扇状に泳ぐようになった。魚はかなりの体長だが、腹から背への体高が異常に高く、まるでヒラメのように見える。魚が浮上して、パワーを緩めてきたので、右手に竿、左手にデカタモを用意した。魚が上流側から岸辺沿いに近づくのを、80センチのタモで待ちうけ、静かに流しこんだ。この時点で530分、ファイト時間は18分に及んだ。

タモのなかで、ルアーはすでに外れてフリーになっていた。これを取り除き、竿もルアーも遠ざけた。ゆさゆさとネットを揺する巨体にじばし見惚れた。さっそく体長を測ると96p、腹囲がなんと53pもある。異常な肥りかただ。体重は、ばね秤で10.4kgだから風袋を引いて9.8kgと判明した。肥満したイトウは頭部が小さくみえる。背から側線にかけてうっすらと婚姻色のなごりのピンクに染まっていた。産卵後の荒食いをしていたのだろう。相撲取りのようにパンパンに張った胃袋には、イトヨやシラウオがぎっしり詰まっているに違いない。

撮影を済ませて、川に放つと、巨体をくねらせながら、重そうにゆっくりと深みに消えていった。

その朝の川は釣りパラダイスだったことが後にわかった。信頼筋の情報では、115pが上がったらしい。そんな体長なら体重20kg近くあったかもしれない。イトウの会の佐藤は、私とほぼ同時に、105pを自作ミノーで掛けた。容易に寄ってこない魚にいままでにない強さを感じたそうだ。最後に自作ネットですくって、みごとに自己記録を更新した。

イトウ釣りのピークシーズンでも、こうした巨大魚が複数上がる日は、そう多くはない。私はそんな黄金の日に川岸に立っていたことを釣りの神さまに感謝した。