179話  ミミズの房掛け


 川の氷が解けると、宗谷の釣り人なら一番に思いつくのが、アメマス釣りである。3月末の週末には、小さな川の岸辺に釣り車が集まってくる。周辺の川がまだ凍っているのに、なぜかこの川だけすっかり開いて流れている。人里に近いので、アプローチも簡単である。私は毎年、最初の釣りをここでやることにしている。

 稚内の家を11時ごろ出発するという余裕の出陣だ。周辺の川を偵察しながら、目的地に着いたのは12時半であった。路面は解けてシャーベット状態だが、河畔はまだ雪原である。河畔林にも雪がかぶっている。春の陽光がまぶしく、水温は3.5℃である。

先客がいた。左岸にふたり、右岸にひとり。みなルアーマンだが、釣れていないようだ。私は最初からえさ釣りをやると決めていた。そのためにミミズとヤナギ虫を持参した。竿は振り出しの5.3mだ。道糸は1号で、樽錘をはさみ、ハリス付き針を結んでいる。目印はオレンジと黄色。棚は大まかに2mとした。はじめは、ヤナギ虫をえさとしたが、「宗谷のアメマスはこんな虫を知らないだろう」と思って、ミミズに換えた。ミミズを3匹、針に房掛けにした。おとなしかったミミズが、急に暴れて、くねくね動く。それを、ビュウと投じると、川幅の三分の二までカバーできる。秒速0.5mにも満たない遅い流れに乗せて、竿をゆっくりと振り脈釣りをやる。なんの音沙汰もない。それでも、おなじ行動をつづける。

水面を掻き立てる小魚がいた。いまごろ何者だろう。サケ稚魚にしては時期が早すぎる気がする。それでも餌魚が泳いでいるのだから、アメマスが居ることは間違いあるまい。一度目印が停まったが、合わせに魚は乗らなかった。それでもミミズが半分にちょん切れていたので、食いにきたことが分かった。そこで、もう一度たっぷりと新鮮なミミズを房掛けにして、誘うことにした。左岸から投じた仕掛けが、ドボンと水中に沈む。静かに下流へと竿を振る。そのとき胸騒ぎがした。いや確かに水面直下を大型魚が勢いよく通り過ぎるのを、偏光グラスで目撃したのだ。竿が下流方向へ動き、もうピックアップするしかないと思ったとき、じつにきれいに、黄色の目印がスーッと沈んだ。深淵に留まることなく消し込んだ。合わせというほどのこともないが、穂先をスイと持ち上げると、生命感のある振動が来た。えさ釣りだから、リールはついていない。ラインはピーンと張って、激しく移動する。釣り師は「ヤッホー」だ。この感触を冬の間待ちつづけていたのだ。

やがて魚が浮上した。銀白色のアメマスである。動きが止まったところで、ごぼう抜きし、新雪の上にドサリと下ろした。肥っているわけではないが、やせてローソクでもない。尾びれがピーンと張って美しく、皮膚はギンピカで、ひと目で海から遡上したばかりと分かる。メジャーを忘れたので、竿にしるしをつけて、あとで測ったら44pであった。魚体写真を3枚撮って、川に返した。

私は1匹で十分に満足した。ためらうこともなく、竿を仕舞い、仕掛けを巻き上げて川をあとにした。

車に戻ろうとしたら、イトウの会の加藤に会った。彼はフライマンである。

「えさで釣ったよ。水面直下をベイトフィッシュが泳いでいる。そんなフライがいいよ」と余裕のアドバイスを贈った。

 私は釣り場をあとにして、晴れ渡った宗谷の早春を満喫しながら、稚内に帰った。釣り場にいたのはわずか1時間半ほどであった。

 つぎの月曜日、加藤が「あのあと58pを筆頭に3匹釣りました」と自慢しにきた。アメマスはどれも川のべた底にへばりついていたそうだ。