171話  晩秋の湿原


 11月中旬の小春日和だった。中河川の湿原で独り静かに釣りをしたかった。車を捨てて、湿原に踏み込んだ。雨上がりの湿地は、足を乗せるとブカブカと沈みこみ、ちょっと気味がわるい。枯れないヨシをかき分けて、湿原をまっすぐに川へと歩く。見通しはわるいが、勝手知った平地だから、迷うことはない。小さな溝を跳び越えて、鹿道をたどると、パッと劇的に川に出た。

 秋の川の色がいい。コーヒーブラウンで、河畔の冬枯れの木々を水面に映している。風がないため、水面は微動もしない。どこもかしこもイトウが居ついていそうな雰囲気があるが、もちろんそんなにいるわけではない。水際のヨシをすこし踏みつけて、釣り座をつくる。9.8ftのロッドを差し出して、上流へキャストし、ゆっくりとリールを巻いてくる。コンと魚信が伝わり、引き寄せると銀白のアメマス61pであった。ビンと張った尾びれが美しく力強い。イトウと比べて、同じサイズであれば、アメマスが遊泳力で勝るのではないか。尾びれを見てそうおもう。

 秋の空は気まぐれだ。雲間からきらめく斜光が射したかとおもえば、一転にわかにかきくもり、ザーッと雨が落ちる。フィッシングジャケットの首の部分からフードを出してしのいでいると、直後にまた陽が差す。ときおり南の越冬地へむかうコハクチョウのV字編隊が頭上をとおりすぎていく。

 夏の間は草木でうっそうとしていた川岸は、ほとんどの草木が枯れたので、非常に見通しがいい。とりわけイタドリはカラカラに乾燥し、ミイラのように黒化して同じ方角に倒れている。踏むとパキパキ音がする。シカの足跡や糞はあちこちにあるが、日中は姿を隠しているのか、見かけない。

 川は蛇行をして魅力的なカーブを描いているが、イトウが居つくところは、限られている。太い木の下、川幅の狭まるところ、流速の変わるところ。釣り歩きの途中そういった場所はとくに丁寧に探りをいれるのだが、魚は出なかった。

 花道に着いた。道の両側に水がある。外側は本流で、内側は単なる水たまりだ。まるで歌舞伎の花道のようだから名づけた。花道の中央にある踊り場から、ヨシを避けながら上流と下流にキャスティングができる。下流に山なりの軌跡でルアーを投じ、深く沈めてから引いてくると、釣り師の足元でドスンと魚が食いついた。手ごたえから判断すると、大きくもないが小さくもないちょうどいいサイズだ。踊り場から身を乗り出し、両手で握ったロッドを操った。おそらく花道の下はえぐれていて、そこにイトウが隠れていたのだろう。浮上したイトウを、腰ベルトに差したタモを抜き取って、左手でサッとすくった。63cmででっぷり肥っていた。

 湿原を離れ、車までゆっくりと歩いた。二匹の釣果で心が満たされると、寒さも忘れてしまった。車に戻ると、ペットボトルの茶を飲み、湿原を撮ったカメラの液晶を確かめた。釣り日誌を出して、記録をつけた。「いい釣行だった」と書いた。

 晩秋ともなると、釣果は望むべくもない。一日に1匹釣れたら上等だ。ことしのイトウ釣りシーズンを省みながら、あまり欲を出さずに淡々と川辺をたどる。激しい喜怒哀楽は忘れて、枯淡の境地に浸るのがいい。どれほどの大物を釣ったとか、量産したとかもいいが、晩秋に独り釣りを楽しむことは、かけがえのない幸せではないか。私は年齢のせいか、もうあまりガツガツした釣りをやる気にはならない。挑戦や競いあうよりも、宗谷の自然に調和するような、穏やかな釣りをしたいものだとおもう。