156話  イトウと南極


 私は20歳から30歳台の若いころは南極に、40歳以後の中年になってからイトウに熱中した。当然ながら、私のまわりには南極の友人とイトウの友人がごろごろいる。

 イトウに熱中している友人たちとは、おもに4月から11月までの季節につきあっているが、その残りの12月から3月までの日本が冬の季節には、南極の友人との交友が活発になる。なぜなら、南極の友人は、南半球の夏にあたるこの季節に南極へ往来し、忙しく活動するか、南極に想いを馳せるからだ。

 2010年に出発する第52次南極観測隊に、稚内市は市職員の市川正和さんを越冬隊員として派遣することになった。市としては46次隊の近江幸秀さんにつづく2人目の隊員である。稚内は人口4万人を割ってしまったが、現在も南極OB3人住んでいる。夏祭りに「みなと南極まつり」という名称をつけるほど南極には特別の想いをもつ自治体なのである。

一方ことしは、市立稚内病院に南極志望の医師が、初期臨床研修にやってきた。当院に所属していれば南極に必ず行けるという保障はないが、南極関係者がときどき訪れる環境は他の病院にはありえない。私を含む当院で働いた医師のうち、3人が南極観測隊に参加した。さらにいえば、3人で5回も南極越冬を経験した。こんな病院は日本では他にはない。

イトウと南極のどちらが興味深いか、面白いかというとこれは甲乙つけがたい。私の場合、南極は40歳になる前に終わったことで、想いは過去形である。もちろん私の後輩がなん人もなん十人も南極へ行き、そのうちのなん人かとは、深いつきあいがあるので、すべて過去形ではないが、自分の経験ではありえない。

一方、イトウは40歳で最初の1匹を釣ってから、もう20年以上のおつきあいである。記録に残るだけでも1319匹とのおつきあいがある。私はイトウとの交友だとおもっているが、イトウからみればとんでもない敵役であろう。私はイトウを幾世代にもわたって傷つけたので、罪滅ぼしをしなければならない。それが釣り人の立場で、人とイトウのよい関係を保つ努力をしていくことである。

イトウと南極の両方に熱中したもうひとりの人物といえば、阿部幹雄である。阿部は40歳台に私と撮影釣行をやるようになり、共著で、「イトウ 北の川に大魚を追う」(1999 山と渓谷社)と「幻の野生 イトウ走る」(2002 北海道新聞社)の2冊のイトウ本を著した。南極へ行ったのは、もちろん私との交友があったからだが、50歳台なかばから3年連続してセールロンダーネ山地という山岳地帯の地学調査に、野外生活全般と安全管理のフィールドアシスタントとして活動した。南極観測隊というのは、なんといっても若者の職場である。本人は言わないが、初回が50歳台というのは、身体的に厳しかったのではないかとおもっている。

イトウも南極も、友人と酒を酌み交わしながら、夜が更けるのも忘れるほどの話題である。その大きさ、厳しさ、工夫と挑戦の数々、同志の人びと、強烈な印象、達成感といったものが記憶の底からつぎつぎにほとばしり出る。私の場合は、南極との離別のあと、「もうひとつの南極」としてイトウが登場した。阿部の場合は、順序が逆になる。あふれるほどの時間と労力を投入した者だけが味わえる至福の想いである。

 ことしは、ひさしぶりに阿部とイトウ釣行ができるかもしれない。釣り師と写真家のコンビでイトウを追いながら、休憩時には南極話にふける。そんなぜいたくで楽しい旅がしてみたい。