144話  炎天下の一日


 年齢60をすぎると、一日中歩くとか、一日中竿をふるとかいうことがつらくなる。体力のうち瞬発力はとうになくなっているが、持久力も徐々に落ちてきた。本波幸一さんは、一日に22時間も釣りつづけたという伝説的な持久力をもっているが、私の腕や肩はそんな運動にはとても耐え切れない。

 お盆も終わる日、私は大河の畔に立ち込んで、7時から16時まで一心に竿をふりつづけた。中天にかかる夏の陽光を顔面左半分に浴びながら、ただ1匹のイトウを釣るために全力でキャストを繰り返した。午前中はまだよかった。あっちでバシャこっちでバシャと派手なボイルがあって、いつかはイトウが釣れると信じるよりどころとなった。しかし、午後になると、さすがにボイルが消えた。たまにルアーの届かない川の流心で巨大魚の背中がイルカのにように見え隠れするだけで、ルアーの射程距離内では、なにも起きない。陽光を反射して、川面がギラギラ筋状に光る。カワウの編隊がときどきユラユラと隊列を乱しながら海側から山側に通りすぎていく。流れる汗をかいくぐって顔面にアブが停まる。ためいきが出る。

 長期戦になることが予想できたので、おにぎりとお茶はもってきていた。1時間キャストすると、10分間ほど河畔ヤナギの陰で休憩をとる。あまり食欲がなく、無理に食べているような感じだ。汗が滝のように流れるのに、補給が追いつかないので、脱水になった。もうろうとなりそうだった。それでも1匹のイトウを釣るまでがんばろうとおもった。

 単調なキャストがつづく。根がかりする沈木の一部が見えていた。そこを避けると、あまり自由にルアーを投げることができない。せめてルアーの種類を代えて、イトウの食い気を誘った。エースであるMM13をメインに、スプーンのクロコダイル、ArtistやSurgerといったジグミノー、その他ボックスに入っているルアーをつぎつぎに使った。しかしまったくかすりもしない。

 さすがに15時半ともなると、根負けしてもうやめようとおもった。最後に、一番信頼の置けるMM13に代えた。これを角度で15度づつくらいずらしてキャストした。一度目はなにも起きなかった。しかし、二度目に90度方向にフルキャストしてゆっくりと引いてきたとき、15mほどの沖合いで、確かに奇跡的に、その日初めての魚信を感じた。グーンとたわむような引き込みと同時に、水面が逆光のなかで大きくかき乱された。

「来たーっ」

私は叫び、釣りの神さまの存在を認めた。

9.5ftの竿は、激しくおじぎをし、緩めに設定したドラグが小気味よく効いて、ラインが出ていった。シルエットの魚はくろぐろとして、よほどの大物かと期待したが、引きはさほどでなく、容易に近づいてきた。体高はあってパワフルな外形だが寸足らずというイトウは、やがて泥の浜にズリ上げられて、どろどろになってのたうちまわった。最近せっかくランドしたイトウに逃げられていたので、すぐタモに収めてから、フックを外した。尾のフックが、下顎に刺さっていた。暴れる魚を抑えようとして、腹のフックが私の左高指に刺さった。返しまで入ってしまった。浅いとみて、無理やりニッパでむしりとった。血管や神経を痛めなくてよかったが、外科医のやることではなかった。それだけ興奮して、我を忘れていたのだ。

イトウは78pで、タモごとバネ計りで測って、風袋を引くと4.4kgであった。要するにたいした大物ではなかった。それでも8時間半も竿を振って得た1匹は感無量で、なかなか放流できず、うっとりと眺めた。

一日竿をふって、獲物なしで終わるのと、1匹釣るのとでは、大ちがいである。釣りとはそういうもので、ボウズでは一日の激しい行動が無駄に終わってしまったような気がする。1匹釣って終われば、よく頑張ったと自画自賛することになる。幸運の分岐点は「最後はMM13 で」という決断だったのか。