143話  冷夏の91センチ


 ことしの宗谷は天候不順で、7月に入ってもぐずついた天気がつづいた。盛夏らしくカラッと晴れて汗をかく日がほとんどなかった。周期的に低気圧が道内を通過して雨を降らせ、宗谷の河川の水位も高め安定、つねに濁りのある状況がつづいた。例年なら7月中旬以降は渇水と水温上昇でイトウが釣れなくなるのだが、ことしはイトウを釣るために川に立ち込むこともできない有様となった。

 そんな週末、私は河川の下流部に向かった。川は増水して、ササ濁りの透明度で、いつもより流速が速く、とうとうと海に流れくだっていた。ときおり流木がプカプカ漂ってくる。私はいつもの牧草地のわきに車を停めた。川までわずかの距離だ。エゾニュウが人の背丈くらいに伸びて奇怪な花冠をさらし、ハマナスの紫色の花が風にそよいでいる。

川幅は20bほどで、力いっぱいキャストすると対岸を釣ることになるので、適当にブレーキをかけなければならない。イトウは対岸沿いに回遊するとはかぎらないが、なぜかそうおもってしまう。イトウが掛かった場合取り込みやすいように砂浜のあるワンドに陣取るが、なかなか魚信のないまま時間が過ぎていった。

10時、100b上流のヨシ原の水際に水柱が上がったのを、目の端でしっかりとらえた。明らかにイトウのボイルだ。私はすぐに最短距離の対岸に走った。ボイルのあった場所の上流下流10bの範囲のなかにイトウはいると確信して、集中的にルアーを投げることにした。

5投、6投も集中攻撃しただろうか、突然重々しい抵抗が竿を通じて伝わった。

「食いついた!」

大型の魚がさかんに頭を振って、ルアーを外そうとしているさまが竿先の動きで分かる。魚は水面直下でもがいて、鏡の水面がその動きに同調して、複雑な波が立つ。魚は対岸に上流に下流にと縦横無尽に走るが、その都度ジリジリとラインを引き出していく。

「ドラグがよく効いている。持久戦に持ち込める」

イトウが10b圏に近寄ってきたとき、水中でヒラをうち、腹部が黄金色に反射した。

「お、でかいぞ」

魚影を見て私は固くなった。これは千載一遇のチャンスだと、にわかに緊張しはじめたのだ。

さいわい私の釣り座近くには、流倒木や水没した河畔林などのうるさい障害物はない。存分に闘える。直径80pのタモは、柄をフルに伸ばした状態で、岸辺の左手にあった。まだ魚は、水面下に潜る体力を温存していた。無理やり取り込むことはしないで、自由に泳がせ、徐々に体力を奪っていくのだ。

私は突然、邪念をおこして、カメラを防水袋から取り出し、魚の動きを撮影しはじめた。そんな余裕はないはずだが、岸辺の釣り座から大物が掛かるといつもやるのだ。竿を左手で持ち、右手でシャッターを切る。そんな馬鹿げた応対をして大魚をバラシたこともあるが、じつは唯一のメーターイトウを取り込んだときも撮影をやっていたのだ。

やがて疲れたイトウが浮上した。もう潜るパワーを失って、釣り師のおもうままに操れる。私はカメラを仕舞い、決然として取り込みにかかった。長タモを左手で沈めて、その直上へイトウをスーッと静かに誘導し、間髪を入れずにタモを持ち上げて、ネットインした。ネット内で魚はめちゃくちゃに暴れるが、それを左手で持ちこたえ、すぐにラインをカッターで切断して、竿を遠ざけた。すぐ両手でタモを抱きかかえ、完全に魚を手中にした。

「勝ったぞ」

歓喜のカタルシスが沸きあがってくる。

写真撮影のため、魚入りのタモをかかえて、20bほど離れた砂浜に移動した。魚とタモ網と一塊になったルアーを、慎重に外した。メジャーで計測すると体長は91pだ。タモごとバネばかりで体重を量り、風袋の1kgを引くと体重は6.4kgであった。

「もしもーし、91が来たよ。写真とってぇ」

ここから少し下流で釣りをしているはずの釣友に掛けた電話の声は、弾んでいたにちがいない。

私はつねに超大物イトウを狙っているわけではないが、年に1匹くらいは立派なイトウを釣りたい。それが初冬のイトウ写真展の主役になり、翌年の年賀状になるからだ。その主役を確保でき、抱っこ写真も撮ってもらい、私は幸せであった。