121話  昭和30年代


 映画「ALWAYS三丁目の夕日」と「ALWAYS続・三丁目の夕日」を見ると、昭和30年代の貧しいけれど人情あふれる下町の人びとの生活が克明に描かれていて、あたたかなノスタルジアを感じて自然に優しい気持ちになる。喜怒哀楽を素直に表現し、人間らしい暮らしをしていた人びとがまことにうらやましい。

私は昭和24年生まれだから、映画の登場人物でいえば、鈴木オートのひとり息子・鈴木一平や、小説家・茶川が育てる吉行淳之介とおなえ年くらいなのだ。たしかに、そのころ家はいつも空けっぱなしで近所の人びとが出入りし、みんなで夕食の卓を囲んでいたし、鈴木家と同じくすきやきはめったに食べられなかった。となりの家に遊びにいって、おやつをもらったりもした。六ちゃんほどの美女ではなかったが、うちにも田舎出の10代のお手伝いさんがいて、家族の一員として暮らしていた。「いい時代だったなあ」としみじみおもう。

私の家は、京都の中心部の有名な花街・祇園にあり、父親はそのゴチャゴチャした猥雑な街で医院を開業していた。私の釣り好きはまさに父親から受け継いだが、その父は平日でも琵琶湖に朝駆けして、ゲンゴロウブナを二三匹釣ってくるほどの釣りキチであった。バケツのなかで、まっすぐ泳げないで曲がったままの大きな(といっても30pほどだったが)ゲンゴロウブナは私のあこがれだった。

さて、その昭和30年代こそ尻別川のイトウ釣りの黄金時代であったのだ。もちろん私はまだ小学生か中学生になったばかりで、イトウという巨大魚の存在すら知らなかった。 

草島清作名人にお会いして、そのころの尻別川の話をうかがったことがある。

「むかしの尻別川の風景は、現在の天塩川のようで、とうとうと水量豊かに流れていました」

草島名人は目を細めるようにして、遠いむかしの尻別川をなつかしみ、そのころの驚異の釣果を披露してくれた。名人は生涯にイトウを4000匹以上釣ったそうだ。数だけなら私も1200匹というおなじ桁に差しかかっているが、名人のいう「イトウ」はすべてがメーター級で、メーター以下は「イトウ」とは呼ばず「ピンコ」といったそうだ。それならば、私のイトウの生涯釣果はたった1匹で、あとはみんな「ピンコ」ということになる。

時代がちがえば、資源量も異なる話とはいえ、草島名人が4000匹もイトウを釣ることができたむかしの尻別川は、いったいどれほど魚を育む豊穣な川だったのだろう。道央のイトウ釣り師がたくさん活躍した尻別川ですらそれほどイトウがいたのだから、長さも幅も流域面積も尻別川よりワンランク上の天塩川なら、いったいどれほどのイトウが生息していたか想像もつかない。

いま私は宗谷の川でできる限りのイトウを釣って、せっせと記録に残し、きちんとしたデータとして公表しようとしている。自然保護の立場からは、イトウ資源の推移を表わすひとつのエビデンスを提供したい。現代の釣り師には、地元民という恵まれた立場なら、どれくらい釣れるかという到達可能な指標を示したい。しかし、それだけではなく、未来の釣り師には、平成の時代にはこういう釣りをしていたのだというドキュメントを残したいと思う。

私は草島名人が生涯4000匹のイトウを釣ることができた昭和を、古きよき時代だったとおもうが、もしかしたら私の平成の1200匹すら将来には途方もない数字と理解されるようになるかもしれない。

イトウの生息環境を昭和30年代に戻すのはもう不可能かもしれないが、すくなくとも平成20年の自然環境を維持したいものだ。